頭の中の感想置き場

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~ほつれて絡み合う2人の運命と震災に立ち向かう希望~「君の名は。」ネタバレレビュー

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作品概要

千年ぶりに彗星の来訪を迎えた日本、東京で暮らしていた男子高校生と緑生い茂る飛騨の田舎で暮らしていた女子高生の意識が突如として入れ替わってしまい、2人の周囲も巻き込んで運命が大きく変化していく様を描くアニメーション映画。声の出演は神木隆之介上白石萌音長澤まさみ成田凌悠木碧島崎信長石川界人谷花音市原悦子など。監督は「秒速5センチメートル」の新海誠

 

 

点数:5.0点(5.0点満点、0.5刻み)

※ネタバレを含みますので読まれる方はご注意ください

 

 

物理的距離と心理的距離に阻まれる切ない人間模様を詩的な演出で描き続けてきた新海誠が、多くの人々を楽しませるエンターテイメント性や3.11を踏まえたモチーフなどを携えて、若き2人の時空を超えた運命と美しくもやるせない巨大な災厄への希望を描き出す渾身の1作だ。

 

まずここで表明しておきたい。僕は何気なくレンタルビデオ店で借りた「秒速5センチメートル」を鑑賞して以来、新海誠の大ファンである。想いは募るばかりなのに物理的に離れているためにどうすることもできず、近くにいるはずなのに想いは縮まらないという若者達の埋められない心のすれ違いとそんな思い出を抱えたまま人生を歩んでいくほろ苦い成長を詩的情緒豊かなモノローグと夢のように輝きを増す日常の風景描写の積み重ねによって彩られていく新海誠ワールドに何度も涙し、胸を締め付けられてきた。たとえ整合性が取れていないと指摘されようと、気恥ずかしくなってしまうほどのセンチメンタルさとナルシスティックさを指摘されようとも、僕は新海誠が描き出す儚い美しさや切なさを愛せずにはいられないのである。正直ファン歴も浅いし、これまでに彼の作品を劇場で見る機会は1度もなかったが、それほどまでに思い入れがある。

 

しかし大ファンであるが故に、今作には大きな不安を持っていた。何より新海誠フィルモグラフィー的に長編作品はイマイチな出来栄えになってしまう傾向がある。これまでに新海誠は「雲のむこう、約束の場所」と「星を追う子供」の長編2作を製作しているのだが、中編である「秒速5センチメートル」や「言の葉の庭」と比較すると、はっきり言ってこの長編2作品は野心的な試みはあるものの、壮大な世界観を持て余してしまっているとしか言えない出来栄えだと思う。それにモノローグの多さと美しい日常風景描写、主人公達の心理描写にフォーカスした描き方故に、映画的に静的で閉じたものになってしまう、現実世界以外の世界観や設定が主人公達の心理描写を描くためだけの舞台装置にしかなっていないなど大きな欠点も抱えているアニメ作家でもある。かつてないほど大規模な公開館数で知名度も高くない新海誠がこの新作でコテンパンにされてしまう可能性は大いにあったし、ファンとしては厳しいジャッジを下さなければならないと本気で思っていた。だがその不安は杞憂に終わる。新海誠はきちんと自分自身が築き上げてきた作家性を描きながら、多くの人々の心を掴むエンターテイメントを作り上げたのだから…。

 

物語は飛騨の山奥にある糸守町で町一番の神社で巫女として仕える身である宮水三葉から始まる。三葉が普段通り学校へ登校しようとすると周囲の反応がどこかおかしい。祖母の一葉や妹の四葉も「今日は普通だね」とホッとしたような言葉を口にし、親友である勅使河原克彦名取早耶香からも「昨日はおかしかった」、「記憶喪失みたいだった」と口を揃えて言う。そしてノートには「お前は誰だ?」という見に覚えのないメッセージが書かれていた。三葉はなんとかして昨日のことを思い出そうとするものの、まるで記憶にない。ただのストレスであるとあまり深く考えないようにした三葉は、巫女として御神体に奉納する巫女の口噛み酒を仕立てる儀式を行った後、こんな田舎暮らしにはもうウンザリと思いながら深い眠りにつく。「来世は東京のイケメン男子にしてください!」と願いを込めながら…。そんな中、世間ではティアマト彗星が千年ぶりに日本に最接近するというニュースが話題になっていた。

 

朝、三葉が目を覚ますと見知らぬ部屋にいた。そして女子にはあるはずのない男性器があることに気づいて動揺する。鏡を見てみるとそこに映っていたの立花瀧という名の男子高校生の顔だった。訳も分からないまま家を出てみるとそこには東京の風景が広がっていた。三葉はよくできた夢だなぁと思いつつ、道に迷いながらも学校へ登校し、瀧の親友である藤井司と高木真太とのカフェ巡りを楽しみ、慣れないアルバイト先で自分の窮地を救ってくれた憧れの先輩である奥寺ミキの破れた服を直してあげるなど、立花瀧としての生活を楽しむ。そして彼の取り巻く人間関係のことを考えながら、今日の出来事を日記に記して深い眠りにつく。翌日の朝、瀧が目覚めると手に書かれた「みつは」というメッセージと携帯に残された日記を見つけて驚愕する。それを裏付けるかのように司や真太、バイト先の奥寺先輩の反応も明らかにおかしいことに気づく。そして、瀧もまた見ず知らず田舎の女子高校生になるという夢を見ていた。ようやく瀧と三葉は最近身の回りで起こっていた違和感の原因に気づく。2人は夢の中で入れ替わっていて、それは現実の出来事とリンクしていることを…。こうして2人はそれぞれの人生や生活を守るためにルールを作りながら、この奇妙な入れ替わり生活を過ごしていくことになる。しかしどうしてもこの入れ替わり生活は周囲を巻き込んで2人の環境を変化させ、異性とのギャップに戸惑う。そんな不思議な交流を通じていつしか2人の間には特別な想いが形成されていくのだった。

 

しかし中盤から判明するある真実によって、この2人の関係性は東京と飛騨という物理的距離を越えた壁に阻まれている事実が明らかになる。ある日、三葉と入れ替わった瀧が一葉と四葉と共に山の頂上にある御神体に口噛み酒を奉納しに行ったときのこと、奉納も無事に終えて人と人ならざるものが交わる昼でも夜でもないカタワレ時(黄昏時)に差し掛かった瞬間、一葉から「お前、夢を見ているな?」と指摘され、瀧は夢から覚め、その目からは一筋の涙がこぼれていた。何が起こったのか分からないまま携帯を見てみると、三葉が取り付けた奥寺先輩とのデートの待ち合わせが迫っていた。しかし心の準備もできないまま始まってしまったデートは、案の定ぎこちないまま終わってしまい、奥寺先輩からは「昔は私のことが好きだったけど、今は他に好きな人がいるでしょ?」と言われてしまう。そのときは否定していた瀧だったが、デート後におもむろに三葉に電話をかけてみる。だが電話は繋がらないどころか、その日以来、不定期に起こっていた入れ替わりもなくなってしまう。そして三葉が残した日記には「今日の今頃は彗星も見えるね」という文言が残されていた…。

 

入れ替わりもなくなり、連絡も取れない三葉のことが気になる瀧は、居ても経っても居られず三葉の目を通じて見てきた田舎町の風景のスケッチを頼りに、司と奥寺先輩と共に三葉に会いに行こうとする。なかなか三葉の住む町を特定することができない瀧達だったが、立ち寄ったラーメン屋の店主のおかげで三葉の住む町が糸守町であることが判明する。しかし糸守町を訪れてみると夢の中で見た美しい田舎風景はなく、そこにはえぐられたような巨大な湖が出来上がっていた。糸守町は3年前にティアマト彗星の一部が隕石となって降り注ぎ、何百人もの命を巻き込んで消滅していたのだった。そんなはずはないと携帯に記された日記も見ようとするもデータは消えており、犠牲者名簿には三葉や彼女の友人、家族の名前がしっかりと刻まれていた。遠く離れた田舎に住んでいたと思っていた彼女は3年前に死んでいた、しかしあの入れ替わりの日々は間違いなく本物だった…混乱するばかりの瀧は必死に彼女のことを思い出そうとするも名前が出てこなくなってしまう。忘れたくないはずなのに忘れてしまう、会いたいのに会えない…ここにきて、新海誠らしい2人だけの力ではどうすることもできないすれ違いや断絶を描くための巨大な障壁が浮き彫りになる。

 

そしてクライマックスに向けて2人の恋模様と災厄が運命によって様変わりしていく。驚愕の真実に混乱するばかりの瀧だったが、誰から貰ったのか覚えていないけれど時々お守りとしてつけていた組紐を思い出し、三葉に会いたい一心で一人でかつて訪れた御神体へと向かう。組紐は糸守町の伝統工芸品であり、道祖神を意味する古い言葉で、人と人との出会いや別れや魂の結びつき、時間の流れなどを表す「ムスビ」の象徴として知られている。そんな組紐に導かれるように 、何年も人が踏み入った形跡のない御神体にたどり着いた瀧は三葉の半分である口噛み酒を見つけ、飲み干してみる。すると三葉の人生が走馬灯のように流れていく。三葉や四葉の誕生や成長、母である二葉の死、その悲しみから立ち直れずに家族の元を去る父親、瀧との入れ替わりの日々、東京に行こうとする三葉、その日の夜にロングだった髪の毛をショートにした三葉、美しい彗星が三葉の眼前に迫ってくる瞬間…ただ走馬灯を見ることしかできないもどかしさが瀧を襲う。そして目覚めると瀧は彗星が落下してくる当日の三葉と入れ替わっていた。

 

三葉と入れ替わった瀧はもう一度三葉に出会うため、みんなを救うために克彦や早耶香を巻き込んで、変電所を爆発させて彗星の被害が及ばない高校へ避難させる計画を企てる。しかし誰も瀧の言葉を聞こうとはせず、町長である父親の俊樹からは「お前は病気だ」と言われてしまう。「自分にはできないのか?三葉ならできるのか?」と焦りが募る中、瀧は四葉から三葉が昨日突然東京に行ったことを聞かされる。実は瀧と奥寺先輩とのデート当日、三葉は瀧に会いに東京に来ていたのだ。しかし3年のズレが生じているため、まだ三葉の存在を知る前の瀧と出会ってしまい、3年前の瀧から冷たくあしらわれてしまう。そして分かれる直前に三葉は組紐と共に自分の名前を伝え、失意を感じたままその日の夜にロングだった髪の毛をバッサリ切っていた。彼がお守りとしてずっと持っていた組紐は三葉からもらったものだったのだ。そして瀧は御神体のある山の頂上へと走り出す。そこに三葉がいると信じて…。その頃、瀧と入れ替わった三葉は変わり果てた糸守町に唖然とするばかりだった。

 

ようやく御神体にたどり着いた瀧は三葉の気配を感じ、三葉もまた瀧の気配を感じる。しかし3年という時間の壁に阻まれて出会うことは出来ない。そこにいるという確信は強くなり、会いたいという気持ちは抑えられない。そんなもどかしさが頂点に達する時、周囲はカタワレ時に包まれる。すると2人の体は元に戻り、そこには夢にまで見た想い人が目の前に立っていた。夢の中での入れ替わりを通じて仲を深め合った2人が、3年という時空の壁を乗り越えて遂に初めて直接出会う…それはもう運命だけが成せる奇跡だ。そんな奇跡に2人は涙交じりの笑みを浮かべ、これまでに話したかった他愛もないことを話し続ける。そして瀧は糸守町を救う計画と3年前にもらった組紐を三葉に託し、最後にお互いのことを忘れないようにと三葉の手のひらに自分の名前を書く。そして三葉が瀧の手のひらに名前を書こうとした瞬間、三葉の姿は消えてしまう…カタワレ時が終わったのだ。大丈夫、あれだけの出来事を忘れるはずはない、名前だって覚えている…三葉の名前を何度も復唱する瀧。しかし三葉の名前はフッと頭の中から消えてしまう。大切な何かを亡くしてしまったかのように泣きながら瀧は叫ぶ。「君の名前は…!」

 

一方、三葉達は計画を実行に移し、変電所の爆発と防災無線の電波ジャックで住民を誘導しようとしていた。しかし住民達の避難の足取りは重く、事態の収拾に動く役場によって防災無線も止められてしまう。そして三葉もまた瀧の名前が思い出せなくなってしまう。そうこうしている間にも刻一刻とティアマト彗星は日本に最接近し、瀧を含めた多くの人々がその美しさに空を眺めている。なんとかして役場にいる父を説得しようと走り出す三葉は、瀧の名前を忘れてしまったことや町のみんなを助けることができるのかという不安に押しつぶされそうになる。そんなときに手のひらに書いた文字が目に入る。そこには忘れたくない人の名前ではなく「すきだ」という想いが書かれていた。その想いを知った三葉は父親と対峙する。そしてティアマト彗星から分裂した隕石が糸守町に降り注ぎ、町の半分を壊滅させたのだった。

 

それから数年後、大学生になった瀧は慣れないスーツを着こなして就職活動に勤しんでいた。カタワレ時の奇跡から一夜明けた後、瀧は三葉との時空を超えた交流を全て忘れてしまった。だが美しい彗星に心奪われたあの日、誰も予測できなかった隕石落下によって糸守町が壊滅したものの、町の住人は奇跡的に無事だったという出来事にずっと関心を寄せ続けていたことだけはしっかりと覚えている。なぜ縁も所縁もない場所の出来事にここまで固執しているのだろうか?それ以来、瀧はずっと誰かを探しているような感覚に囚われる。誰かは分からないが、会えば絶対に分かる運命の人のような人…。しかし今は終わりの見えない就職活動のことで頭がいっぱいだ。既に司や真太は内定を何社も勝ち取っているという事実に焦りが募る。 久しぶりに出会った奥寺先輩からも「幸せになりなさいよ」とエールを送られる。そんな心の引っかかりを抱えながら季節は過ぎていき瀧は社会人となり、三葉や糸守町の住人も東京で自分の生活を営み続けていた。瀧も三葉も誰かの面影をずっと探し続けている感覚に突き動かされながら日々の生活は過ぎ去っていく。そんなある日、2人は逆方向の満員電車にいた探し続けてきた誰かを見つける。衝動に身を任せて2人は電車を降りて走り出す。そして階段の向こう側でお互いに探し続けてきた面影を見つける。最初はどうしていいか分からずにすれ違う2人だが、勇気を振り絞って瀧が声をかけ、その問いかけに三葉は涙を流す。そして2人はお互いに問いかける「君の名前は?」と…。

 

…長々とストーリーを振り返ってみたが、今作は運命や希望という理屈では説明できない大きな力を新海誠の純粋な眼差しで見つめ直した作品ではないかと思う。主人公の瀧と三葉は出会うべき運命がありながらもまだ出会ってはいない見知らぬ2人である。そんな2人が夢での入れ替わりという変則的な形で出会うことで運命のほつれが生まれ、歯車が動き出す。都会と田舎という遠く離れた場所に暮らす2人が夢を通じてお互いのことを知り合っていき、いつしか誰よりも知り尽くしたその人のことが頭から離れられなくなる。なぜ全く接点もない場所に住むその人のことを考えてしまうは分からない、でも絶対にこの人と結ばれるという直感…それこそが運命である。しかし運命は時に残酷なまでに現実を突きつけ、なす術もない大きな力として絶望に陥れる。どんなに会いたいと願っても3年というズレが2人の運命を断ち切り、三葉にはティアマト彗星の落下という災厄によって命を落とす運命が待っている。運命になる人だと直感的に分かっていても、絶対に2人は出会うことはないという事実に我々は瀧と同様に打ちひしがれ、壮大なすれ違いに切なさが込み上げてくる。

 

だが瀧はもう一度三葉に会いたい、こんな運命を受け入れてしまうなんてできないとばかりに三つ葉の口噛み酒を口にして運命を変えようともがき続け、三葉もまた瀧から渡された組紐と想いを胸に運命に抗い続ける。そして2人はカタワレ時に時空を超えた再会を果たし、ティアマト彗星の落下から三葉を救い、運命の人として新たな運命を始めることに成功する。運命に抗ったことで定められた運命を2人の願いによってねじ伏せるという奇跡のような運命のいたずらを起こしたのだ。これまでの作品で何度も2人はすれ違ったまま前を向いて歩き出すというほろ苦いビターエンドを描き続けてきた新海誠にとってこんなに希望に満ちたハッピーエンドは初めてである。長年のファンになればなるほどこの結末を「大衆に媚びた」とか「新海作品でハッピーエンドとかありえない!」と感じるかもしれない(実は自分も最初同じことを思った)。しかし今作に関してはこれまで運命に引き裂かれる2人のすれ違いを描き続けてきた新海誠からの「幸せになりなさいよ」というエールのようにも思える。突き動かされる直感、残酷なまでに定められた大きな力、気まぐれのような奇跡…言葉にするのが難しい「運命」という概念を今作では見事に描き出している。

 

そして今作は2人の甘酸っぱいラブストーリーという狭い世界の物語ではなく震災映画としての大きい広がりを持たせていることも重要なポイントだ。ティアマト彗星の落下によって糸守町や三葉をはじめとした多くの住民達の命を奪い去っていってしまったという展開は、これまで経験してきた巨大な自然災害(特に東日本大震災)を連想せずにはいられない。目を見張るような美しさに日本中が見惚れていたティアマト彗星が、突如として大災害へと転じていく様は美しいが故に恐ろしく、とてつもない絶望感と喪失感を植え付ける。そんな大災害が起こった当時、眺めることしか出来なかった瀧の立ち位置は自分と同じく災害に巻き込まれた当事者ではない視点としてものすごく突き刺さる。どうすることもできない大災害を目の前にただ眺めるだけしかできない、かと言って被災した人々にしてやれることは多くはない。もちろんボランティアで被災地支援に行くなど大きな行動を起こした人もいるだろうが、当事者ではない多くの人は災害に後ろ髪を引かれながらやれる範囲の支援(募金など)をしつつ自分の日常を過ごすことで精一杯だったのではないか。被災した人々にそっと寄り添ってあげたい、けれど被災者が味わった辛さや悲しみを遠くで見ているだけだった人々が真に理解するのはなかなか難しい、でももしその辛さや悲しみを変えてあげられたなら…

 

そんな多くの人々の代表である瀧が、三葉と共に運命という理屈を超えた概念で以って自然災害の被害から糸守町の住人を救う展開は、被災しなかった多くの人々が引っかかっていたが無力さや不甲斐なさを希望と願いに転化させたと言える。これはファン視点ではあるのだが、「言の葉の庭」の主人公であるユキノが三葉の通う高校の古典の先生として登場するのだが、もし瀧と三葉が運命を変えなかったとしたらユキノも命を落としていた可能性が高い。彼らのおかげでユキノは命を落とすという運命を回避したと同時に、どこかで頑張っているであろう「言の葉の庭」のもう1人の主人公であるタカオとのムスビを繋いでくれたと見ることができる。無力でしかなかった願いと希望が大きな力となって運命を翻すのである。この展開に関しては上辺だけの偽善や自己満足に思う人もいるかもしれないが、自分のように救われた気持ちになった人も多いのではないだろうか。だからこそこの物語のラストは前述したハッピーエンドである必要があるのだ。これまで「君と僕」の静的な内面にフォーカスし続けるセカイ系の文脈からのし上がってきた新海誠が、能動的に大きな世界へと干渉し、旅立っていくことを描いたことは大きな成長であると同時に、全てを美しく純粋に映し出す新海誠作品だからこそ運命と希望が輝いて見えるのだ。きっとこれまでの新海誠作品であれば、彗星落下という世界観を持て余し、2人のすれ違いを作り上げるだけの装置にしかならなかっただろう。

 

また閉塞感に満ちた環境からの解放というのも個人的にグッとくるポイントだ。三葉にとって糸守町は自分を縛る大きな枷のように捉えている。ほっといてほしいのに周囲からは町長の娘、宮森神社の跡継ぎという目で見られ、将来は巫女を継いでこの田舎町で一生を終える。誰もが特別な目で見てくる距離感、義務付けられた将来という名の閉塞感は三葉にとって目を背けたいことである。同じように土建屋を継ぐ将来が待っている勅使河原の「このままこの町で過ごしていく」や「お互い大変やな」というセリフは自分も似た境遇にあるので彼らの諦めに似た達観は痛いほど分かる。実際に土建屋の社長の息子だった新海誠の人生も重なっているだろう。そんな閉塞感に関しても瀧と三葉の想いという名の運命の力によって解放され、東京でそれぞれの将来を歩み続けるのである。定められた運命に抗うというテーマはこういった部分にもよく出ているし、自分の信じた道を突き進んで土建屋ではなくクリエイター作家として自分の人生を切り開いた新海誠の想いが込められていると思う。

 

そんな今作は多くの人々の心を掴むエンターテイメントを作るという意味でこれまでの新海誠作品と大きく異なって見える。まず明るい笑いが思わずこみ上げてくる作品になっている点だ。これは特に大林宣彦の「転校生」に代表されるような「入れ替わりもの」というジャンルによって生まれたものだ。今作の前半部分では東京に住む男子高校生と飛騨の田舎町に住む女子高校生のの意識が不定期に入れ替わることによって、2人の周囲を巻き込んである種のカルチャーショックをもたらし、コミカルな場面が連続する。そして見慣れない場所や環境に戸惑いながらも異性としての生活を楽しむ姿や異性が変わってしまったことで妄想を爆発させてしまう姿、そして勝手に自分の人生を変な方向に進められて怒ってしまう姿に思わず微笑ましい気持ちになる。

 

例えば三葉視点では女子にはない男性器に対して「リアル過ぎ」と赤面する、思わず女っぽい仕草や方言が出てしまう、憧れだったカフェ巡りに舞い上がり瀧のお金を使い込んでしまう、無駄遣いしてしまったお金を稼ぐために瀧が入れまくった過密なアルバイトのシフトに疲弊する、瀧がひそかに想いを寄せる奥寺先輩との関係を勝手に進めてしまって瀧から怒られてしまうなどだ。一方で瀧視点では男子にはない胸の感触を毎回確かめてしまう、思わず男勝りな言動や仕草をしてしまう、三葉が住んでいる神社の伝統である組紐作りに悪戦苦闘する、バスケットボールの試合で大胆なプレーをしてしまい男子達の視線を釘付けにしてしまう、男子や後輩の女子生徒から告白を受けるようになってしまうなどだ。他にも「三葉の胸を揉む⇒四葉が呆れる」という天丼ギャグや四葉などの微笑ましいコメディリリーフの投入などによって作品全体の雰囲気がとても明るく見える。まさか新海誠作品でこんな甘酸っぱくて、思わず笑みがこぼれるような展開を魅せてくれるとは思いもよらなかった。

 

そして普通のアニメ映画らしい要素もふんだんに取り入れていることも多くの人々の心を掴むエンターテイメントを作るという意味でとても重要である。例えばこれまでの新海誠作品ではキャラクターデザインがリアルではあるものの、良くも悪くものっぺりとしたデザインであまり印象に残らなかった。またモノローグと美しい背景を積み重ねる作風であることからアニメーションの動きもあまり大きな動きをすることもなかった。しかし今作で田中将賀が手掛けたキャラクターデザインはリアルでありながら親しみやすく、表情豊かでイキイキとしたデザインとなっている。アニメーションの動きに関しても安藤雅司による作画によってとても躍動感あふれるアニメ的快感をもたらしている。他にもオープニングムービーや口噛み酒の妄想など普段アニメを見ているような者ならば普通に思えるようなシーンや描写が沢山ある。ストーリーの展開含め普通のアニメらしさを取り入れることで新海誠は大きな進化を遂げたと言っていい。大衆達の心を掴む王道なエンターテイメントをようやく作れる力量になったということがとても嬉しい。

 

もちろん新海誠作品のモチーフや演出もきっちりと兼ね備えられている。やはり新海誠作品と言えばリアルさと幻想的な美しさを併せ持った日常の背景である。糸守町の風景は赤々とした紅葉やどこか侘しさを残す踏切、歴史の重みを感じさせる宮水神社など日本の田舎町の原風景そのものだ。一方、新海誠作品ではお馴染みである新宿周辺の風景は新宿駅の喧騒や画一的でありながら独特な個性を放つビル群、そんな無機質なビル群に映える新緑など身近な風景としての輝きを放つ。またご神体のある山頂や破滅の匂わせる美しい彗星など神秘的な風景もまた魅力的で、ジブリ映画とはまた違った幻想的な世界観を描き出す。そして忘れてはいけないのが空と光である。朝焼けの空や澄み渡る青空、夕暮れ時の空、月や彗星が輝く夜空によって風景が様々な顔を魅せる。そんな移ろいを魅せるためにタイムラプスを使用しているのも新たな試みとしてフレッシュである。また独特なセリフ回しや誌的なモノローグも大きな魅力の一つである。抽象的でありながら、的確に切ない感情や愛する想いを表してしまうセリフ回しや言葉選びはいつも素晴らしく、僕の言語力では言語化てきないほどだ。特に冒頭のモノローグは見事にこの作品の全てを映し出す鏡のようである。そして扉の開け閉め=境目、組紐=運命、和歌や古語、携帯電話、電車、すれ違う場面などこれまでに何度も新海誠作品に登場した様々なモチーフも効果的に使われている。何気ない風景がこんなにも輝いて見えるというドラマチックさ、誌的なモノローグで描くファンタジックさはテーマや物語を美しく包み込む新海誠作品には必須の要素である。

 

そして新海誠作品を語る上で忘れてはいけないのが音楽である。これまでにも音楽によって登場人物達の変遷や感情の流れを描写してきた新海誠だが、今作ではRADWIMPSとタッグを組み、今まで以上に音楽によるドラマチックな演出を随所に散りばめる。オープニングクレジットと共に流れる「夢灯篭」では物語の暗示と出会う前の2人が駆けだす瞬間を、波乱に満ちた入れ替わり生活と共に流れる「前前前世」では変則的に出会ってしまった運命の2人の奇跡と喜びを、ティアマト彗星から人々を守ろうとする三葉と美しい彗星を眺める瀧と共に流れる「スパークル」ではどんな困難に阻まれていようとも君を見つけにいくという強い意志を、真の意味で運命の人である2人が出会う瞬間に流れる「なんでもないや」では険しい道のりだった物語のリフレインとその果てにようやく出会えた2人への祝福と未来を見事に切り取る。美しいメロディも然ることながら、歌詞を見るだけで彼らの想いや切なさが蘇ってくるほどの素晴らしい楽曲達はもはや映画で輝くもう1人の主人公である。また歌詞フレーズのセンスや言葉選びという意味で新海誠RADWIMPSは繋がるものがあるかもしれない。あとスコアに関しても、これまでの新海誠作品にはないロックさが全面に出たスコアや、普通のアニメ映画で聞かれるような美しいスコアを聞かせてくれる。

 

ここまで絶賛一辺倒であったが、欠点となりそうなポイントも挙げておこうと思う。まず3年のズレという設定によって辻褄が合わない点だ。3年のズレが生じていたというのは入れ替わりが無くなってから明らかになる設定だが、入れ替わり生活をしていれば日々のニュースや携帯機種、曜日のズレに気付くのではないだろうか。次にいくらなんでもRADWIMPSの曲が多用され過ぎるのではなかという点だ。107分の中に4曲も流れると流すというのはかなり過剰なサービスに思えるし、もはやRADWIMPSのPV映画のように見える人もいるのではないだろうか。他にも瀧と三葉が入れ替わる必然性がないとかいろいろツッコむ人もいるだろう。ただ自分の中では壮大に膨れ上がった2人のロマンと美しさにおいて全て霞むと言っておく。出来る限りフォローすると、3年のズレに関しては夢を通じて生活を見ているから周辺のディテールを思い出せなかった、または事態の風化を表していたのではないかと思うし、入れ替わる必然性に関しては運命はどこから始まるのか分からない運命を描くからこそ必然性は排されているのではと思う。RADWIMPSに関しては好みの問題のような気がする。

 

最後に役者陣の魅力についても触れておきたい。瀧を演じた神木隆之介の声は好青年でありながらどこか女々しいな雰囲気があって、自ら歩みだす主人公としての一面とこれまでの新海誠作品らしい落ち着きを感じさせる。一方で三葉を演じた上白石萌音の声はとても天真爛漫さが滲み出る元気な声で作品に明るさをもたらすと共に、絶望的な展開へのフックとして喪失感を煽る。そして2人とも入れ替わったときの憑依演技が素晴らしく、一歩間違えれば浮世離れしたやり過ぎ演技になるところを見事にコントロールしていると感じた。彼らの端正な演技と感情のぶつかり合いによって映画のクオリティを格段に上げているのだ。他にも身にまとう色っぽさを声にのせて大人な奥寺先輩を演じた長澤まさみや大人顔負けの冷静なツッコミと方言を使いこなす二葉を演じた谷花音、優しさと温かさを滲ませながら良き親友であり続ける勅使河原を演じた成田凌、歴史を感じさせる風格で三葉達を見守る一葉を演じた市原悦子などプロの声優に負けないほどの役者陣の演技が支える。プロの声優陣に関しても司役の島崎信長や真太役の石川界人はよき親友ポジションとして親しみのある好青年を演じていたし、早耶香役の悠木碧は最初彼女が演じていると気づかないほどの名演技を見せている。彼らの演技も必見だ。

 

出会う前の2人のもがきから生まれた超次元的な運命と震災へ立ち向かう希望を美しい日常風景とモノローグ、RADWIMPSの楽曲を積み重ねる新海誠らしさと普通のアニメ映画らしさによって描き出したことで、多くの人々の心に切なさや感動をもたらすほどの傑作へとなった。そして知る人ぞ知るアニメ作家であった新海誠が遂にここまでの大きな作品を作り上げ、誰もが知るアニメ作家へと飛翔したことに自分のようなファンは寂しさを覚えつつも、嬉しくてたまらないのだ。これまであなたの作品を愛し続けていて本当によかった、ありがとう…。