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~襲い掛かる巨大な虚構と新たな再生~「シン・ゴジラ」ネタバレレビュー

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作品概要

突如として出現した巨大不明生物が日本の首都である東京を蹂躙していく姿と、この前代未聞の災害に政府関係者達が事態の収束に向けて立ち向かう姿を描く「ゴジラ」シリーズ第29作目。出演は長谷川博己竹野内豊石原さとみ大杉漣柄本明余貴美子高良健吾市川実日子高橋一生松尾諭津田寛治塚本晋也國村隼平泉成野村萬斎など。監督は「新世紀エヴァンゲリオン」の庵野秀明と実写版「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」の樋口真嗣

 

 

点数:5.0点(5.0点満点、0.5刻み)

※ネタバレを含みますので読まれる方はご注意ください

 

 

ゴジラという象徴をぶつけることで生まれる風刺と庵野秀明と仲間達によって作られた怪獣という巨大な嘘によるスペクタクルは第1作目「ゴジラ」を連想するどころか、日本国という運命共同体を描き出す新たな次元に到達したゴジラ映画として堂々した存在感を放って君臨していると言える映画だ。

 

1954年に誕生して以来、怪獣王ゴジラは人類が生み出した核という名の災厄や子供達のヒーローなど様々な象徴として日本だけでなく世界に君臨し続けてきた。そして2004年の「ゴジラ FINAL WARS」以来、12年ぶりに日本で製作されたゴジラ映画が公開されることになる。しかも監督が「新世紀エヴァンゲリオン」を作り上げたクリエーターであり、筋金入りの特撮オタクとしても名高い庵野秀明樋口真嗣である。それはもう期待値は自然と高くなってしまうものだ。そして今作は日本国そのものを主人公に置き、庵野秀明らしい描写を積み重ねることで見事その期待値を超えてみせる。

 

物語は海上保安庁が無人のボートを発見したところから始まる。船内には特に荒らされた形跡もなく、綺麗に並べられた靴と謎の書類だけが置かれている。この不可解な状況に戸惑いながらも海上保安庁が船内を探索していると突然、海面から天にも届く勢いで大量の水蒸気が噴出され、東京アクアトンネルが崩落してしまう事故が発生。今作の中心人物となる内閣官房長副長官の矢口は秘書官の志村を引き連れ、情報収集に励む。そして大河内内閣総理大臣や東官房長官、赤坂内閣総理大臣補佐官をはじめとした閣僚達が召集され、東京湾の封鎖が決定されるものの、事故原因については海底火山の噴火や局地的地震など議論が割れていた。そんな中、矢口は謎の生物と思しき体の一部分が映ったネット動画を見つけ、巨大な生物の存在を進言するがもちろん信用されない。しかし突如として巨大な生物の尻尾と思われる物体がニュース映像に映されたことから、政府はこの巨大な生物=巨大不明生物への対処方法の検討を開始することになる。そして様々な専門家が集められて協議された結果、この巨大不明生物が上陸する可能性はないという決断が下される。

 

しかし大河内が緊急記者会見を行っている最中に、巨大不明生物はボートや桟橋を巻き込みながら川をさかのぼり、蒲田に上陸してしまう。障害物を壊しながら後ろ足だけで移動していく巨大不明生物に人々はパニックに陥る。政府は緊急災害対策本部を設置し、自衛隊による武力行使、防衛出動の是非について議論が交わされる。巨大不明生物の襲撃という前代未聞の事態を考慮し、矢口や赤坂、東達は大河内に災害緊急事態の布告を宣言するように提案する。最初は躊躇する大河内だったが、これ以上の被害の拡大を阻止すべく、苦渋の決断を下す。そして自衛隊による巨大不明生物の駆除作戦が立案され、品川までやってきた巨大不明生物を駆除するべく自衛隊のヘリが配備される。その時、巨大不明生物は突然動きを止め、体を立ち上がらせ始める。そして前脚部分から腕が形成され、体が更に巨大になっていく…巨大不明生物はまだ進化の途中にいる生物だったのだ。そんな巨大不明生物に驚きながらも、付近住人の避難が完了したという報告を受けて大河内が射撃命令を出そうとする。しかし射線上に避難に遅れた一般市民がいることが確認され、急遽命令は中止される。すると突然、巨大不明生物の背びれが発光し、また川を下って東京湾へと去っていった。

 

たった数時間の間に甚大な被害をもたらした巨大不明生物に対応すべく、政府には巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)が設置され、矢口をリーダーに志村、尾頭をはじめとする各省庁や各分野の異端児達が結集する。そして個性的な巨災対のメンバーによって巨大不明生物のエネルギー源は移動ルートの放射線量分布から核分裂であること、体内には巨大な生体原子炉のようなものが存在し、背びれからの放熱と血液流によって冷却していることが予想された。また極秘裏に来日したアメリカ大統領特使のカヨコ・アン・パタースンによって重要な情報がもたらされる。60年前に各国が深海に捨てた放射性廃棄物を摂取したある生物が未知の進化を遂げていることを確認したアメリカエネルギー省は、日本の生物学会から追放されて現在はエネルギー関係の研究機関に所属する牧教授に調査を依頼した。そして牧教授は古代生物が放射性物質に耐えうるような進化を遂げたという仮説を立て、この未知の生物に自分の故郷である大戸島で神の化身を意味する「呉爾羅」と名付けた。その後牧教授は7日前に成田空港に降り立ったのを最後に行方不明になってしまい、冒頭で発見された無人のボートだけが残されていた。そして彼の研究成果を得るためには無人ボートに残された書類とカヨコからもたらされた牧の最終データを組み合わせなければならないことが判明する。これらの情報を元に巨大不明生物は「ゴジラ」と呼称され、体内冷却機能の強制停止を目的とした血液凝固促進剤の投与を目指す作戦プラン、通称「矢口プラン」が立案されるのだった。

 

そんな中、更に進化を遂げて巨大になったゴジラ相模湾から鎌倉に上陸し、このままだと3時間で首都東京に侵入されてしまう恐れがあるとの試算が出される。これを阻止すべく自衛隊は首都防衛のための作戦、通称「タバ作戦」を展開し、ヘリコプターからの機関砲やミサイル、戦車からの砲撃、ミサイルなど自衛隊の兵力を全て投入して、生物の弱点である頭部と動きを止めるための脚部を狙い続ける。しかしゴジラは全くひるむことなく、橋を破壊して前線基地や部隊を壊滅させ、東京都内へと侵入していく。事態を重く見た政府は米軍に協力を依頼することになり、広大な爆破予定地にいる都民の避難によって交通網は完全に麻痺していく。官邸もゴジラの予想進路内であるため、大河内をはじめとする閣僚はヘリで、矢口たちは車での避難を開始する。そして米軍のステルス機による攻撃が開始され、ゴジラにダメージを与える。しかしその時、ゴジラの背びれが紫に輝き、口から猛烈な火炎を放出しビルをなぎ倒していく。そして猛烈な火炎は熱線へと収束し、上空のステルス機を攻撃する。更にステルス機が攻撃を加えると今度は背びれから膨大な量の熱線を放ち、ステルス機や周辺のビル郡、大河内達を乗せたヘリを巻き込んで文字通りの地獄絵図にしてしまう。そしてエネルギーを放出し終えたゴジラは東京駅にて活動を休止するのだった。

 

一夜明け、ゴジラによって焼き尽くされた街には多量の放射能が巻き散らかされた。また大河内を含めた閣僚もほとんど死に絶えてしまい、海外視察中だったために被害を免れた里見農林水産大臣による急ごしらえの内閣で日本を運営しなくてはならないという絶望的な状況に陥る。そんな中、アメリカがもはや日本だけでなく世界の脅威となったゴジラに対処するために東京での核兵器の使用を計画し、国連の名の下にゴジラの駆除を管轄しようとしていることがカヨコから告げられる。今後の復興や国際社会における立場の確立も見据えて核攻撃を受け入れるべきだという赤坂に対し、矢口は日本の中心である東京を核の業火によって捨てなければならないという事実に反発する。矢口率いる巨対災はなんとかして核攻撃が行われる前に矢口プランを実行させるべく、血液凝固促進剤の確保と牧教授の最終データの解析を急ピッチで進める。そして里見総理大臣や赤坂による核攻撃のカウントダウンを遅らせる工作もあり、矢口の考えに同調したカヨコがアメリカ軍の協力を取り付け、ゴジラの活動停止を目的とした作戦、通称「ヤシオリ作戦」が自衛隊と民間の有志達によって実行される。無人新幹線爆弾、無人在来線爆弾、無人戦闘機の攻撃、高層ビル爆破によってゴジラの動きを封じ込め、血液凝固促進剤をゴジラの口に注入される。しかしゴジラ放射能熱戦や背びれや尻尾からの放射能レーザーで必死の抵抗を見せる。そして決死の作戦の結果、血液凝固促進剤によってゴジラの活動は停止し、氷像のように動かなくなる。こうして日本はゴジラという脅威になんとか打ち勝つことができたのだった。活動を停止したゴジラはまるで巨大な災厄を表現したモニュメントかのように東京の中心にそびえ立つ。しかし矢口達は復興に向けて仕事に戻る。「スクラップ&ビルドでこの国はのし上がってきた、今回も立ち上がるさ」と赤坂が言うように未曾有の災厄は決して無くなることはないが、それでも我々は生き続けるしかない。ラストカットで映るゴジラの尻尾はこれまでの災厄の歴史と災厄を乗り越えて生き続けていく未来を見据えているかのようであった。

 

…長々とストーリーを書いてきたが、今作の主人公はゴジラという巨大な虚構と戦う「日本国」という運命共同体そのものであることが分かってもらえたと思う。まず今作のゴジラは2つの恐怖を象徴する虚構として登場する。1つは第1作目「ゴジラ」のような核という禁忌の技術による恐怖である。ゴジラが誕生した経緯や放射能を撒き散らしながら都心を地獄絵図にしていく姿は文字通り核兵器の恐怖そのものである。また妻が核兵器によって命を落とし、日本や世界そのものに絶望してしまった牧教授が、ボートに綺麗に並べられた靴とゴジラの資料を残しても海に消えてしまった直後に東京アクアトンネルの崩落が始まったように見えることから、ゴジラ=牧教授の生まれ変わりであり、牧教授が核に頼り続ける人類に挑戦を挑んだとも見ることができる(あくまで象徴として見えるだけであって、実際に牧教授がゴジラになった訳ではない)。2つ目は東日本大震災のような人類には絶対に抗えない巨大な災厄である。日本はこれまでに地震や台風、火山噴火、洪水など様々な自然災害に見舞われてきたが、かつてないほど広範囲かつ甚大な被害を出した東日本大震災には誰もが大きなショックを受けた。日常の風景が津波に飲み込まれていく瞬間や、未だに被害が拡大していく福島第一原子力発電所の重大事故を目撃し、抗いがたい大きな力によって命が奪われることがリアルになった現在、ゴジラが川を車やボートを巻き込みながら川を遡っていく様子や、作業着姿の官僚達、矢口が立ち尽くす瓦礫の惨状、ゴジラによって拡大していく被害など東日本大震災を連想せずにはいられないはずだ。

 

そんなゴジラという巨大な虚構に対し、日本はなす術もなくただ蹂躙されていくばかりで、アメリカの核攻撃に頼らざるを得ない状況にまで追い込まれてしまう。自分達の力だけではどうすることも出来ないどうしようもなさや強大な力に頼らなければならない弱さは現代日本の現状を如実に表し、不安と恐怖、疑心によって閉塞感が増していく日本という国に希望を見出すことは難しいのではないかと感じてしまう。しかし日本の中心で国を動かしていく矢口達は、日本という運命共同体に託した多くの人々の生活を守るために、無力であることを知りながらも全力を尽くしていく…諦めず、最後までこの国を見捨てずにやろうと。そんな彼らの姿に心の中に眠っていた活力のようなものがふつふつと湧き上がってくる。そんな矢口達は個人の仕事や気転、結束力など「日本らしさ」を結集させたヤシオリ作戦によってゴジラを活動停止に追い込むのである。確かに日本は無力で希望のない国かもしれない、でも無力ながらも日本らしさを結集させることでどんな困難も乗り切ることができるのではないかという庵野秀明なりの日本像がここで明確に打ち出されるのである。そしてただ長所だけを称えて日本はすごい!と賛辞するのではなく、短所も全てひっくるめて日本はまだやれる!という描き方に日本という運命共同体の一員である観客は魂を震わせるのである。このアプローチは最近では「オデッセイ」に近いものを感じる。また核によって倒すのではなく核を使わず抑え込むというヤシオリ作戦の考え方は、広島や長崎、第五福竜丸事件、福島第一原発など核の恐ろしさや大きな暴力で押さえつけることの不毛さを知っているからこそ、二度とあのような悲劇を日本の中心では起こさせないという日本らしい考え方である。

 

そんな日本を主人公に置いた新しいゴジラ映画を作るにあたり、庵野秀明は徹底的にリアルにこだわり、怪獣というロマンを積み重ねていく。まず目を引くのは、ドキュメンタリーを見ているかのようなリアルな政府関係者による会議や協議で構成された作りだ。もちろんゴジラによる襲撃シーンや自衛隊との攻防、逃げ惑う市井の人々など怪獣映画らしい描写もあるが、ほぼ全編に渡ってゴジラ襲撃に対応する政府役人達の会議が描かれる。しかもひとつの対策が練られて決定されるまでの一連の流れから、各省庁同士の連携、自衛隊の作戦行動、政府役人や自衛隊員の仕草、言葉遣い、考え方、彼らのフィールドである対策センターの美術まで徹底的に調べ上げられ、リアルに描かれる。そのこだわりは何度も見ることで更に深みが増すことだろう。他にも会見映像やニュース映像、SNSでの反応など客観的な映像資料もふんだんに使われているため、観客はゴジラ襲撃という未曾有の事件を議事録や映像資料によって俯瞰した視点で見ることになると同時に、今作で描かれている日本は今我々が生きている日本と同じなんだということを実感させる。この構成はあり得るようであり得なかった大胆な作りであると言える。なぜなら一歩間違えてしまうとただダラダラと会議しているだけの映画なってしまう可能性があるからだ。しかし「ソーシャル・ネットワーク」を連想する早口なセリフ回しや役者陣の好演、岡本喜八リスペクトの細かいカット割り、素早い編集、過剰なテロップ出しによって引き締まった展開を魅せる。また時折見せる登場人物達の間の抜けた言動や会議の繰り返しによる堂々巡りがどこか天丼ギャグに近い可笑しさを生んでいるのも指摘しておきたい。この可笑しさは政治への皮肉だ。

 

一方で巨大な嘘であるゴジラの造詣も随所にロマン溢れるこだわりが見られる。まずゴジラがあのポスタービジュアルの姿ではなく、まるで退化した深海魚と両生類が混ざったような姿(深海魚のラブカがモチーフ)で初登場し、どんどん完全生物として進化していくというのに誰もが驚いたのではないだろうか?徐々に進化していき、完全生物に近づいていくという設定は、神格化された日本のゴジラ像と生物的な不気味さを兼ね備えたローランド・エメリッヒ版「GODZILLA」のハイブリットのようにも感じる。そんなゴジラの姿は焦点の合わない小さな目と焼け爛れたような皮膚、異常に細い腕と長い尻尾などが特徴的で、巨大な火炎バーナーからの放射熱戦、体内放射を連想させる背びれからの放射レーザー、極端に長い尻尾からの放射レーザーなど多彩な攻撃手段を魅せる。中盤の首都壊滅シークエンスは言わずもがな、圧倒的なまでに強力な攻撃と、何を考えているのか分からないまま街を闊歩し、自衛隊の攻撃に無表情のまま突き進んでいく姿に恐怖と不気味さ、邪悪な神々しさを覚えること間違いなしだ。しかも今作のゴジラは従来の着ぐるみではなくモーションキャプチャーによるフルCGで描かれているというのも驚きだ。着ぐるみ特有のゴムっぽい実在感もしっかり再現され、あくまで従来の特撮で仕上げたかのように見えるようになっているのはすごい。私自身も鑑賞後パンフレットを読むまで、ずっとゴジラは着ぐるみやアニマトロニクスで表現されていると思っていたほど違和感がない。それでいてCGだからこそできる生物的な変形や巨大感を煽るような迫力のある場面などもある。しかも昼間のロケーションが多く、CGによって現実感のない浮いた場面になりかねないところを果敢に挑戦し、見事に成功している。「邦画=CGがショボい」というイメージを持っている人にこそ今作の映像を見て衝撃を受けて欲しい。そして今作が日本のCG特撮技術を語る上で歴史に残る作品になったことは間違いないだろう。

 

また庵野秀明らしいフェティッシュさとオマージュも怪獣のロマンを増幅させる。庵野秀明らしいフェティッシュとはリアルとフィクションのパンチラインが絶妙であることと露悪的で残虐な場面はとことん突き詰めることだと思う。自衛隊によるリアルな作戦行動があったかと思えば、無人新幹線爆弾や無人在来線爆弾という荒唐無稽ぎりぎりの兵器が登場するヤシオリ作戦が描かれるなどそのバランス感覚がまた心地よい。とことん露悪的で、残虐であることは前述したゴジラの姿やストーリーからも伺えるだろう。そしてオマージュの面ではスコアの流用やヤシオリ作戦の雰囲気などは「新世紀エヴァンゲリオン」からのセルフオマージュであることは言うまでもないが、ゴジラシリーズに「新幹線大爆破」、「日本のいちばん長い日」、「伝説巨神イデオン」、「巨神兵東京に現る」などなど膨大な量のオマージュがそこかしこに散りばめられている。しかし決してオマージュありきの作品ではない。例えるならばクエンティン・タランティーノの作風に近いかもしれない。

 

またスコアに関しては伊福部昭によるゴジラシリーズや特撮作品のスコア流用と鷺巣詩郎による「新世紀エヴァンゲリオン」のスコアの流用、そして今作のために作られた鷺巣詩郎によるオリジナルスコアによって構成されている。伊福部昭のスコアはゴジラ出現やヤシオリ作戦開始など重要な場面で効果的に使われ、「新世紀エヴァンゲリオン」のスコアもまたプロフェッショナル達が結集して人海戦術を駆使する場面などで効果的に使われている。そして今作のためのオリジナルスコアはドキュメンタリックな作風から一転して虚構が現実を侵食し始める瞬間にヒステリックで不気味なスコアが流れ出し、中盤の大破壊シーンで死を哀悼するエレゲイアが流れ出すなど今回も冴え渡っている。 ちなみに裏話としてモノラル音源である伊福部昭のスコアを保ったままステレオにするために周波数帯や各小節ごとBPMを含めて完全再現したオリジナルスコアを新しく録音し、その新録スコアをモノラルのオリジナルスコアを左右に広く並べて配合するというとんでもない作業をしていた模様である。結局モノラルのオリジナルスコアをそのまま使う事になったので没になったらしいのだが、このことからも庵野秀明の音のこだわりぶりが伺えるだろう。

 

…とここまで今作を褒めちぎってきたが人によっては欠点に感じてしまうであろうポイントもある。まず登場人物達のキャラクター造詣がいくらなんでもアニメっぽくて大仰に見えるところだ。せっかく展開や描写がリアルなのに、その中で動く人々は少々リアルさに欠けている。「新世紀エヴァンゲリオン」の葛城ミサトとアスカを掛け合わせたかのようなカヨコ・アン・パタースンのキャラクター造詣は大仰さの極北だろう。次に会議シーンが多いことをいいことにセリフによる説明が過多に見えるところだ。会議シーンでは画面いっぱいに顔を映して状況を説明する場面の連続で切迫感はあるものの、いくらなんでも単調で説明過多に見えてしまうのではないだろうか。せめて向かい合って話し合う場面を入れるだけでも「リアルな会議」を描くという意味でも合致しながら、映画的にも改善されるような気がするのだが…。そして我々観客に近い立場の視点が入る余地のない作りであるが故に、市井の人々が直接的な被害を受ける場面などの怪獣映画らしい描写が少ないことも物足りなさを感じるポイントかもしれない。私はこのままでも十分怪獣映画らしい恐怖は描けていると思うが…。最後にオタク的なこだわりが積み重なって構成と日本人に向けた映画作りがされているがために、内輪向けの映画になっている気がしてしまう点だ。しかし公開初週末の興行収入と動員数が1位スタートだったことを鑑みると杞憂であるかもしれない。また今後展開されるであろう海外での評判や興行収入も気になるところだ。

 

最後に役者陣の演技について触れておきたい。主要登場人物である矢口役の長谷川博己はこうであって欲しいという理想を、赤坂役の竹野内豊はこうするしかないという現実を見事に体現する。どちらも日本のために働くという意味で正しいが故に2人が屋上で語り合う場面はグッとくる名場面となっていたと思うし、矢口が演説する場面は胸を熱くする場面だ。そしてカヨコ役の石原さとみは荒唐無稽なキャラクターを見事に演じ切り、祖国アメリカと自らのルーツである日本との間で揺れ動く。彼女が自らのルーツに正直になっていく過程は日本という国を描く上で重要な要素だ。また巨対災のメンバーを演じた市川実日子高橋一生津田寛治塚本晋也など変人、オタク、曲者達が力を集結していく姿は見ていて面白い。彼らのようなボンクラ達が世界を救う展開は大好物なのでもっと彼らの活躍が見たいと思ってしまったほどだ。他にも矢口や巨対災を支える高良健吾の見事な忠犬ぶりや松尾諭の頼もしさも魅力的だった。大御所の役者陣では要所要所の反応がどこか可笑しい大杉漣や老練ぶりがかっこいい柄本明、どう見ても小池百合子にしか見えない余貴美子、「仕事ですから」と職務に忠実な國村隼、パブリックイメージのままの演技で日本の良心を体現する平泉成など素晴らしい演技で映画を引き締める。他にも大勢の俳優陣を惜しげも無く使い切る…文字通り豪華なオールスター映画である。

 

核の恐怖と抗えない災厄を象徴する巨大な虚構になす術もなく蹂躙されていく日本の破壊と再生は、従来のゴジラ映画の破壊と再生を含みながら描かれていく。そして見事に日本に住む全ての人々に対する鼓舞とゴジラ映画としての風格を庵野秀明らしさを以ってしっかり継承してみせた。いびつな作風ではあるが、今作は紛れもなくゴジラ映画であり、紛うことなき庵野秀明作品なのだ。自分はそんな胸熱くするゴジラ映画の帰還に心が満たされてしまうのだった。